4.
イエスはご存知のとおり、地上での生活において、「愛」を説き実践し続けました。ですから、「わたしは真理である」とイエスが説いたことを考えると、「真理」≒「愛」と言えるかもしれません。イエスは、また「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合」うことを説きました。
ところで、「真理」あるいは「愛」を享受し、実践する「我ら」とは誰でしょうか。「愛」を分かち合うところの「我ら」とは誰のことでしょうか。私たちが教会で毎週唱える「主の祈り」(*)が示す「我ら」の中には一体、誰が入っているのでしょうか?あるいは、誰かが入っていないということはないでしょうか。国民国家が作り出す「我々」に、祈りの「我ら」が近づいてしまうようなことはないでしょうか。教会は、そのような、眼に見える「関所」になってしまう危険から完全に免れているでしょうか。
9月1日をともに迎えながら私たちは、聖書の言葉を噛みしめながら、果たしえなかった「越境」や「亡命」の途上で「自由」を手にすることなく命を落としたすべての魂をおぼえ、それらの魂とともに「我ら」と唱えられる私たちでありましょう。そして、教会の門の外で、「関所」の手前で「自由」を夢見つつも踞っている小さくされた人々を「我ら」と唱えられる私たちでありましょう。
注(*)
主の祈り:「祈り」についての教えを弟子に乞われたイエスが授けたとされる祈り。マタイによる福音書6章9〜13節や、ルカによる福音書11章2〜4節に記録されている。祈りの主体はすべて「我ら」と複数形で記されている。