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自由を求めて亡命を企図したエフライム人が「関所」で生死のふるいにかけられたように、現代社会のなかに、「関所」が設けられることはないでしょうか。「外国人」の地位をめぐって、日本の法律が大きく変わりました。その法律の一つの要素に「日本語能力」を問うというものがあるそうです。この国に生活することの要件に「日本語」という「言葉」が国境を超える際の一つの尺度にされるということ。「『あなた』が『我々』ならば最低限はこの程度の『言葉』が条件になります」。そのように「言葉」が機能してしまうような社会を、私たちはつくりだし、そのなかで私たちはいま生きています。
教会もまた、その門の外に佇む人の声に十全に耳をすますことができているでしょうか。教会の門が、誰かにとっての「関所」のようになっているということが起こっていないでしょうか。「門」の手前で佇んでいる人を「我々」ではないとみなしてしまうようなことが起きてはいないでしょうか。「高尚」なメッセージの言葉を解するかどうかが、メンバーシップが与えられる条件になり、そのことによって門を叩く者をふるいにかけるというようなことが起きてはいないでしょうか。
現代社会が生んだ、人間の生死を分かつ「関所」として想起する風景があるように思います。その一つは言うまでもなくアウシュヴィッツです。その入り口に掲げられた「労働は自由にする」“Arbait macht frei”という言葉は、今日の聖句、「真理はあなたがたを自由にする」(ヨハネによる福音書8章31〜32節)“Wahrheit wird euch frei machen”のパロディであるかのように感じます。実は、ドイツにおいて、極右勢力が、自分たちの主張に重ねる形で最近この聖句を盛んに使うようになっていると言われています。「我々」に属さない存在が「死」の領域に入るその入り口に設けられた門に掲げられた「労働は自由にする」“Arbait macht frei”という言葉。その言葉をなぞるように、聖句「真理はあなたがたを自由にする」がパロディとして使われているということ。
この二つの言葉は、似ているようですが、決定的に異なります。ナチスドイツの「労働は自由にする」“Arbait macht frei”には自由を誰が享受するものなのかを表現する対象が消されています。また、現在形であることが、「未来」の省略というおぞましさの表現であるとも読み取れます。しかし、イエスの言葉には、自由になるのが誰なのか(あなたがた“euch”)が明確に述べられています。そして、未来形(wird)で語られることによって、それが必ず成就する「約束」であることが併せて表現されています。