職場の機関誌の穴埋めのために書きました。
*********************************
職場の近くに、「アリランストリート」と勝手に呼んでいる路地がある。路地沿いの小さなアパートから時折、朝鮮半島の民謡が聞こえてくることがあった。そこに、あるハルモニ(おばあさん)が住んでいて、お宅に何度かおじゃましたことがある。伺うと必ず「コハンタペタカ」と言って、「はい、食べてきました」と言っているそばから、静かに、大盛りのご飯をよそって、おいしいスープと漬け物をごちそうしてくれた。70歳を超えてもなお通勤定期をもって「まだノガダ(土方)をしてるよ」「首都高速もつくったよ」「サンシャインもつくったよ」と語るそのハルモニの手は、男の私のそれよりはるかに頑丈に練られていた。お話を少し聞いて、さあそろそろ帰ろうかと思いなしたその瞬間、アリナミンA数錠とリポビタンDが無言のうちに出される。この「優しさ」を、何人も拒むことはできない。しかし、へなちょこの身体にはこの「歓待」は効いた。強壮剤によってむしろ体調を崩すという不思議な経験を何度かしたことを思い出す。▲去年の暮れ、一時は放送禁止になっていた「ヨイトマケの唄」がライブで歌われ、その様子がテレビで放映された。多くの人が唖然としたという。後日、その放送を見た私も少なからず心を揺さぶられた。だいぶ前に他界されたあのハルモニが「ノガダ」として「首都高をつくりながら」子どもたちを育てていた頃のその歌は、私に何かを想い起こさせる力を持っていたのだと思う。
▲そばでいっしょにテレビを見ていた母が口を開いた。最近めっきり口数が少なくなってしまっているから少しどきっとした。「縫製の仕事をしていた娘の頃、シャンソン喫茶「銀巴里」で生であの歌手のシャンソンを聞きたかったのだけれど、一杯150円のコーヒーは私の当時の日給と同じだった。とてもじゃないけど行けなかった」。▲思えば母に、私はとても苦労をかけた。「繁栄」の象徴だった東京タワーを見上げながら、縫製の仕事やビルの清掃、家政婦などの仕事をして、母は私を学校に通わせてくれた。小遣いはあまりもらえなかったけれど、本は、言えば必ず買ってくれた。「学がないから」といいながら、甲斐性のある方ではなかった父を支えつつ、静かに私の勉学を励ましてくれた。やさしい光をあびながら、自ら光っていると勘違いして、あまり感謝の言葉をかけることもなく、私はのうのうと生きてきた。だから、あの「ヨイトマケ」の「声」はそのことを問い詰めるように、私に鋭く迫ってきたのだと思う。それは私の母の「声」でもあった。▲私は多くの「母」たちに学ぶべきだった。より深く学ぶべきだった。その貧困にもかかわらず、いや、だからこそ、自分自身の持てる力を「気前よく」、それも、静かに静かにそっと差し出すその身振りにもっと学ぶべきだった。凛とした空気のなかで、大きな十五夜の月の光をあびながら、そう思った。 (2013.9.20 KSY)